昭和45年10月12日 朝の御理解



 御神訓 一、「神徳を受けよ、人徳を得よ。」

 どうでも真の信心をさして頂かねば、受けられぬもの。それは神徳なのです。これはどんなに偉い人でも信心を抜きにして、神徳は受けられません。真の信心をさせて頂いて、それを貫かせて頂いて初めて受けられるのが、神徳だと思います。神徳を受けよ人徳を得よと。人間の真実の幸せというのは、いかに人徳があっても幸せにはつながりません。本当の幸せにはつながりません。ですからやっぱり人間の幸せ、いわゆる幸福というのは、真の信心がなかなければ、人間の幸福はあり得ないことが分かります。
 そういう意味で私共は、こうして真の道を教えてもらい、真の信心を日夜、けいこさせてせて頂いておると、いわば人間の本当の幸福にならして頂けれる道におるということだけでも有り難いですね。だから、その道を行じていき、そして神徳を受けて初めての人間の幸福ということが言えるのです。どんなに物やら、金やらを又は人徳を持っておると云うても、これは人間の幸福にはつながらないということ。人間の真の幸せにはつながらないということ。
 そこんところをひとつはっきりわきまえての信心。信心とは人間が本当に幸せになることの為に有るものであり、為には折角させて頂くならば、神徳を受けさせて頂くというところまで、信心を貫きたいものである。貫くということが神徳を受けるための大変な要素になるのです。 御神徳を受けておられると、という方達の御一生といったものを、見たりまたは聞かせて頂いて思うことは、もうやはり貫いておられます。
 例えば、三代金光様の御事柄に致しましても、そうですね。御年若くて七十年間という間をそれこそ、御取次一筋に貫き通しておられます。そこでその、貫くということなのですけれども、その事がね、その事がいわゆる神意に叶い、その事が神様の認められるところとなり、するものでなかでなからなければ駄目な事がわかります。あの氏子は間違いがないと例えば神様の御神意が動くところ。ね、貫くと云うても、だから焦点を間違えてはならない事が分かる。
 そしてその先にです。人徳を得よとおっしゃっておられます人徳を、いわゆる神徳、そして人徳を兼ね備えていくというところにです、人間のいよいよ幸福というものが約束されるわけですね。三代金光様が御在世中、もう御晩年の頃のある正月の、いわゆる元旦に、今年の信心の焦点といったようなものをね、まだ椛目でお互い信心の稽古をさして頂くそうそうの頃だったと思います。「一心乃真」ということを教えておられますよね。その年の、当時、私、その当時のこれは私の御神米入れですけれども、これ久保山先生がこれは書いておられます。
 一心乃真、これはこう言う字。一心乃真。その一心乃真を貫くということ。今日私は「一心乃真を貫き通す」ということを頂きました。ただ私はこの一心乃真ということを、そう深くは感じていなかった。ただ素晴らしい、一心乃真と言うことは、ま、金光教では真という言葉をあらゆる場合に使いますからね、真とか真心ということを。しかもそれを一心を持ってその頂こうと、貫こうということ。一心乃真を貫くと。本当の幸せを渡したいと思われ、又受けたいと思う。
 そこからね、いわゆる真の信心を求めることになるのです、天地の親神様が人間氏子に本当の幸せを得てもらいたい、特に信心しておかげを受けてくれよというのは、その事だとこう思ですね。ただ金を儲かってくれ、ただ健康になってくれといったようなもんじゃないと思う。本当の幸せになってくれとこういうておられる。なら、その本当の幸せを頂きたいと願う。ね、いわゆる頂きたいと願うものを、渡したいと願う者。
 あれは昔、新羅三郎義光という人がありました。この人は笙の名手ですね、笙、七力と言う笙です。楽器ですね。その方が秘曲といわれるま、大変な名曲をね、弟子の方に伝えるという場面が、私共の小学校の時の国語の本で確か習ったことを覚えとります。渡したいけれどもね、それを受けよとする者がなかったら、これはもう仕方がないことだけではなくて、それを持っておる者として、このように残念なことはなかろう。これだけは、ね、渡したい。それは秘曲、というて秘曲という程しの大変な曲ですから。
 そのだれいらんにゃ教えられん。又、教えたところでそれを受ける力がない。神徳というのは、そんなものじゃなかろうか。神徳を受けよ。ここでもこれは私が、青年会時代から知っております、久留米の宮原という、これは樂の名手だった。本部の樂人でもあられますと同時に、もう笙、七力、笛のいわゆる名人といわれておられる方ですけれども、どうでも合楽にひとつ自分の知っておることだけのことを教えておきたいと。これはもう十何年前やったでしょうかね。
 これも久留米の初代の時分に、笛と七力の名人と言われなさった通り町のお方ですけれども、その人が亡くなられましたですね。それこそ本部の樂長から、願いをこわれてね、その楽器を譲ってくれと言われた。けれどもこれは譲られないと。自分の命のように大事にしておる、笛と七力を。おそらくこれから本当の楽を伝えていけれるのはもう当時の椛目、椛目より他になかろうと思いなさった何回か参って来なさった。ね、そしてここへ奉納しておられます。それが今度世に出るか出らないかということは。
 こっちの受け心次第なんですけれども。もうそれこそあのケースなんかでも、当時のランタイ漆器でですね、もう金のかけられるしこかけて、作っておられる、見事な笛と七力がございます。あの笛とあの七力はどこに行ったじゃろうかというて皆が言っておる。それをこの頃宮原さんがみえてから、ここへ来ておると聞いて、びっくりしておられます。それをまた、その、その方達よりもちょっと一代時代が遅れますけれど。
 私と友達ぐらいですから、宮原さんは。が、最近向こうの方から電話をかけてみえてですね、どうでもまあ十名くらい雅楽のいわゆる楽人を募ってくれと。自分もうとにかく毎日でも教えに行きたいからと言ったように言って下さる。言って下さるけれどもこちらが本気で習おう、本気でそれを教えてもらおうという気にならなければね、できんのです。その宮原さんの考えとしてはです。久留米は昔から楽の、典楽の事においてはもう日本一といわれた。だから名人がたくさん出たわけですね、その楽の上でも。
 だから折角これだけの事を、なら久留米の教会には習おうという者が一人もいないのですから、笙七力でも。ね、琴がいわばやっとかっという感じなんです。だからそれをなら習おうという意欲を持っておるのは、まあ、合楽だろうとこういう訳なんです。 そこで合楽でそういう方があるならば、その是非教えたいからというわけです。本当に一生懸命にそれを残しておきたい。それを又受け継がせて頂こうというようなね、意欲が出てこなければ、その受け渡しはできんのです。
 その為に私もなかなかふんぎりがつかなかったですね。習いだしてから途中で止めるような事があっちゃならん。どうでもこうでもやっぱり受けようという気にならなければならんと思うて、ま、今日まで、まあここ一両日のうちにおそらく、典楽の希望の方達が集まって、先生に来ていただいたから、話し合いをさせて頂こうと思います。近いうちに楽人の装束もきます。勿論楽器は全部揃ってるんですからね、笙、七力、笛。だから装束までがもう大祭までには揃うということ。
 だからそれをその吹いたり、使用したりする者がいないわけなんだ。というとま、ちょっと道が余談になりましたけれどもね。今日はその新羅三郎義光という人が、自分の持っておる全ていうなら秘曲も全てをその自分の弟子に渡そうと。あれは確かもういよいよ戦争に出る。その間際にですね、途中まで追いかけていった弟子にあの野原で、自分の秘曲を弟子に伝えるという筋のものだったと、私は思います。教える方も一生懸命ならもう習う方も一生懸命。もう今日これだけしかないのだと、ね。
 お互いこれを習ったら、生きるか死ぬるか分からない戦場へ向かうんだと、というので一生懸命の秘曲のいわば受け渡しがあるという事だ。ね、私は本当にこの神徳を受けるといったようなことを神徳を例えば持っておる人が、その神徳を受けたいという人に渡す、その受けたいという人の私は根性だと思うですね。ただおかげを受けたい、おかげを受けたいというようなね、事ではね、そらぁ最近願い願いということをいわれますから、おかげも頂かねばなりませんけれども。
 やはりなんといったって、神徳受けなければ駄目です。だからその神徳を受けるためには、なら一心乃真を貫かなければならんということです。これも歴史の上に残っておる人のお話ですけれども、新田義貞という人がありましたね。南朝北朝といった、いわゆるどちらが本当の天皇様やら分らない、世の中乱れに乱れた時代の武将です。ね、いわゆる天皇陛下の軍に味方するために意をひるがえして、そのあれは確か楠正成の軍に合流し、参加して、その足利勢でしたかね。
 との一戦を交えようと言うのですけれども、もう時間がない。余りにも距離が遠い。それを可能にするのは、此の海を越えていくより他にないち。回り道しよったんじゃ間にあわん。そこでね、あの稲村ケ崎ですか、あそこの岬に立って龍神に祈るというところがありましょう。自分の一番大事にしておる黄金作りの太刀を海に、いわゆるお供えをするわけですね、龍神に、そしてそこに一心にその願う。不思議にその海の水が引いてしもうた。そこを渡っていわゆる楠正成の軍にま。
 さんしゅつしてたというお話なんですよ。いわゆる天地が自由になる。海の水がいわば干潮でもないのに、干上がってしもうた。そこを新田義貞の軍はいわゆる早道をしてですね、海を越えて行ったという話が残っておりますように。私は一心乃真というのはね、そういうことだと思うね。自分の一番大切なもの、ね、一心乃、私は先ほどどういうように申しました、ちょっと間違ったように思う。一心乃真を捧げるということです。今日頂いたのは。一心のだから願い願いというても。
 一心乃真を捧げての願いでなかなければならない。これは神徳を受ける。というのは、そのただ願ったからとか、又はたくさんのものを捧げたからだけじゃいかん。やはり自分の大事なもの、これは自分の魂とも思われるもの。いやこれをはずしたらもう人間の生きがいさえないかもしれないという程しのものをです、私は捧げる、その一心にですね、天地が動きなさる。天地が私はいわば、天地の親神様が御信用下さるというのはそういう私はことだと思う。一心乃真を捧げての願い。
 これはまあ、神徳を受けようとか、おかげを受けようとかということの為にです、もです、私共はそういう素晴らしいものを受けようというのですから、やはりその位な私は精進というか、その度胸というか、ね、事がなされなければ只普通ではね、やっぱり普通のおかげだとこう思います。一心乃真を捧げ、しかもそれを貫くということ。そこにね、神徳を受けて行った、受けた方達の信心というものは、そのようなものであったと思いますね。例えば人間の自由の全てを神様に捧げ奉られたというのが。
 私は三代金光様のお姿だとこう思います。ね、遊び盛りのまだ13才位のお子さまである金光様が、その遊ぶことも例えば子供にとって遊ぶということを取り上げてしもうたら、こんな楽しみのない事はなかろうとこう思う。それでもやはり泣く泣く辛抱したとこう仰っておらえれます。ですからせめてですね、私の、ま、生涯からです、好きなもののひとつやふたつ位、断ち切ってでも、私は縋るというくらいな姿勢は当然必要だと私は思います。タバコが好きな人がある。お酒が好きな人がある。
 甘いものが好きな人がある。ね、それを例えば、断ってからでもというくらいな、私は意欲が。遊びごとが好きな人がある。麻雀やら将棋やらなるほどすれば楽しい。これは私は思うんですけれどもね、私はじっとこう、御神徳を受けられた先生方の、生き方のなかから、お酒を召し上がったというその御神徳を受けた方は聞いたけれども、タバコを召し上がる御神徳を受けたという人をまだ少ない。だから私はタバコどん飲みよったっちゃ、御神徳は受けられんと思うてから私はタバコを止めました。
 だからま、それを反対にとって、タバコども飲みよってから御神徳どん受けられんということになりますよね。お徳を受けた方達がみんなタバコを召し上がっとらんです、桂先生にしたところで、甘木の安武先生にしたところで、久留米の石橋先生にしたところで。私はタバコにこだわる訳じゃないけれども、ね、タバコどん吸わしとってからうと御神徳を頂きたいなんてんことはできん、ちゅうことは感じます。これはま、私一人の感じ。ですから私どももやっぱ御神徳を受けたい。ね、
 だから、御神徳を受けたという人の話を聞いて、曲がりなりにも、ああいう信心すりゃこういう信心すりゃということを聞かせていただくと、そこんところに改まっていこうと一生懸命につとめる。けれども今なおかつ思うことはです、まだまだ言うならばです、ね、新田義貞が自分の武将としての、一番大切なものは刀、魂。しかも黄金作りの宝物のようなものをです、龍神に奉ってからまでの願いになっていないことを思います時ですね、これはいよいよそこんところのおかげを。
 いていかねばならんなという風に思います。先日から秋永先生が盗難に遭われた。沢山な自動車を盗れた。昨日は久富勇さんがテーラーでお百姓の仕事を終わって帰るのに、自動車にぶつけなさった。勿論怪我はなかった、あっちも相手の自動車を傷つたというので、まあ、もちろんそれはこちらが見らなければならないわけでしょう。繁男さんのお届けがあった。これ程最近願い願いというような、いわゆる今まで何十年間という間の信心の稽古をさせて頂いた信心を基調にして。
 しかも願わせて頂いて、まあ願いのなかにはです、ね、今月今日をどうぞ、いうならば無事に、まあいうなら平穏無事を願っておられないはずがない、願いの中に。それにどうしてそう云うようなことが起こってくるのだろうかと。私夕べ、昨夜その事を一生懸命御祈念させて頂いとりました。そしたらね、萩桔梗、という大変良い歌があります。昔の歌に、萩桔梗、ご承知じゃないでしょうね。その文句にね、萩桔梗、中に玉梓忍ばせて、という句があります。萩桔梗、中にたまづさ忍ばせて。
 と萩桔梗というのは、秋の七草の云うなら、寂しい花の表現ですね。萩桔梗。とられたり、ね、相手の車に傷つけたりと、寂しい事ですよね。めぐりのお取り払いを頂いて有り難いと、まあ、云いやもうそれまでです。けれども最近のここの信心の体勢、しかもここでは、まあ言うならば指折りの信心をなさっておられる、ね、信徒会長とか、また企画部長であるところの久富勇さんとかと、いう方達がです、そういう事になっていくと云うことはどうした事であろうかと、思うたら今私が頂きましたように。
 「萩桔梗、中に玉梓忍ばせて」と頂いた。そういう寂しいことが、ね、例えば起きてくるということにはね、中にね、その中に御神意があるのだと。玉梓と云うのは文の事ですね、手紙の事です。神様がね、神様の心の底をです、その中から打ち割って分かってくれよと云うてござるとです。だからその人達だけしか分からん、実際は。私達がどうしてじゃろうかと云うわけにいかん。その中にあるご神意と云うものは、その玉梓を開いてみてです、神様の心の中が分かるのだと。
 久富勇こうあってくてよとそのこうあってくれよと、秋永友良こうあってくれよとね、そうあってくれよというそれがね、私は一心乃真をもって一心乃真を持ってそれが捧げられる時、それが捧尽くされるとき貫かれるとき、私は御神徳を受けるときだと思うですねね、だからこれは一人一人に違うんだね、秋永友良ここを例えば改まってくれよと、久富勇、ここをどうぞと、いわれるその御神意をですね、悟らせて頂いてそれをね、いわゆるそれを捧げての願いでなからなければならないと云うことなんです。
 これ程の熱心な信心が、いうならお二人ともできられ、ここでは言うならば指折りのご信者さんなんです。であればあるほどにです、神様はそこんところを願い求めておられるんだという風に私は思います。過去二十年間のたとえば信心を基調にする事は勿論の事。ね、しかもその二十年間取り組んできたけれども、できなかったこと。ね、例えばそう云うような事柄の中にです、本気でそれを、それを捧げての願い。それが一心の私は真だと思う。私、この一心の真と云うことは、もうこの親教会のお日届の中に。
 こん中に入れて、今光昭が日参、代参致しておりますから、毎日これ見せて頂いておるわけです。この一心乃真、一心乃真。けれどもね、そういうことだとは、気がつかなかった。困ったことが起きてくる。その御神意を悟る。ね、それをね、それを一心を持って真を持って、新田義貞が竜神に黄金造りの太刀を捧げたようにです、捧げての願い。そこには、もうおかげの世界ではなくて、御神徳の世界があると私は思いますね。
 云うならいかに久富勇に又は秋永友良に。人間の真実の本当の幸せを受けてくれよと神様の願いがそこに聞こえるような思いがしますね。金光様の亡くなられてから、初めてこのいわゆる、十何年前におっしゃっておられるこの、一心乃真が初めて、今日分かったような気がする。捧げてもきた。尽くしてもきた。ある意味合いでは、貫いてきておる事もあるけれども、それではない、もっともっと核心に触れたもの。ね、
 そこんところにです、私どもは気付かせて頂いて、一心乃真を捧げての願いと、云うことになってくるときに。もうおかげの世界ではなく、御神徳の世界がそこにある。そこからね、人徳がついてくるおかげでなかなければ、神徳、人徳を兼ね備える事はできない。どんなに素晴らしい財産を持ち、どんなに人徳があるというても、これでは人間の幸せというものは、約束されるものではない。ね。
 神徳を受けなければならん。ね、そして後、人徳がついてくる。云うなら財産がついてくると云うおかげをね、頂きたいもんだ。そういうおかげをですね、渡しとうてうずうずしておられるのが現在の合楽に働きかけて下さる神様の私は御思いではなかろうかというふうに思います。ね、それをどうでもこうでも渡そうとしなさる神様、それをどうでもこうでも受けようとする私共。
 そこにいわゆる一心の真がそこに火花を散らすように出会う。そこから今までに二十年間もかかってできなかったことがです、本気で習おう、本気で教えようとするその中にです、例えば一晩なら一晩、ね、新羅三郎吉光とその弟子とが、その秘曲の全巻をその弟子に譲ることができたようなですね、そういう一生懸命の場が今、合楽の皆さんの上にも望まれているときのように思われるのです。
 ならここに困った事態がいま起こっているわけではないけれども。何と話に寂しい、いわゆる萩桔梗である。どうしても本当のおかげになってこないのは、どうしてじゃろかと思う、迷うことがいくらでもある。その為には、いろいろの角度から、ま、教えを頂いておる。これは久富勇さんの奥さんの昨日一昨日でしたか、あの頂いておられるように、不同の扱いをすなと云う御理解がありましたですね。
 時にあの、その朝のご祈念にはお参りができておられなかった。その後に参って来て、その事を云われるから、それは今朝の御理解ですたいと云うてお話しした事でしたけれども。例えば皆さんがお賽銭を奉られる、お初穂を奉られる、その奉る内容というものに、不同があってはならないと云うこと。お初穂は例えばならうやうやしゅう、ここでお供えさせてもらうならば。
 お賽銭もやはりうやうやしゅう私は、ね。片一方は御賽銭な十円じゃから。こちらは百円だからと云うて、いわゆる不同の扱いをお金にでもしてはならないと云うことを頂いておられますですね。そういう例えば精進を分からせて頂くことも分からせて頂きながらです、今日私がいわゆる、御神徳を受けていくというひとつの決めてと云うようなものですね。二十年間ここいっちょ改まりゃ。
 かげになることは分かっとるばってん。思うようなところを云うならば。おかげでだんだん分かってきたんですからね。だからその事をです、ね、私共は捧げての願い、一心乃真を捧げると云うことはそう云うことだと私は今日は分からせて頂いたように思う。一心乃真。だから云うならばです、タバコとか、甘いものとか、辛いものとか云ったような意味じゃない。ね、
 けれどもそれはいよいよ本当なものを捧げ尽くす為の稽古にはなる。それを貫くことは、いけない事ではない。けれどもそれよりもっともっと、これはあなたにしか分からない、中に玉梓忍ばせてというのは、もうあなただけに対するところの神の便りである。その神の便りを聞かせてもらって、そこから一心乃真が捧げ尽くされる。貫かれる。そこに私はおかげの世界ではない、もうそこには神徳の世界があるという風に申しましたですね。   どうぞ。